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2020.6.7【対談】平石貴樹×柴田元幸

【対談】平石貴樹×柴田元幸

2016年6月21日(火)19:00〜丸善・丸の内本店にて開催された『アメリカ短編ベスト10』(松柏社)刊行記念トークショーの内容です。ご来場くださった皆様、ご質問くださった皆様、本当にありがとうございました。

対談目次

✎「普通に読んで」とは誰が?

✎柴田は「ぴあ」の世代?

✎トウェインの短編ってほんとに面白い?

✎バーセルミが入っていないのに、なぜブローティガンだけ偏愛するのか

✎やはりリアリズムがベースにあるべき?

✎ポーが最後まで本気で書いている短編

✎「バートルビー」のわからなさは、わからないままにはできない何か

✎ジュエットの短編はどれもいいのか

✎「ローマ熱」の驚きの結末

✎イーディス・ウォートンのほうがジェイムズより偉い?

✎死の恐怖に直面しないと成り立たない小説

✎「あの夕陽」は誰の物語なのか

✎フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、オコナー短編の「この一作」は?

✎「サニーのブルース」の兄はなぜジャズを雄弁に語れるのか

✎平石が選んだ「殺し屋であるわが子よ」は柴田は選ばない

✎柴田の翻訳に最近古典的な作品が増えているのはなぜ?

✎ヘミングウェイ「何かの終わり」は男性本位でけしからん?

✎「シェフの家」は「あの夕陽」より腑に落ちにくい。なぜか。

✎「ウェイクフィールド」はホーソーン・ファンからするとちょっとずるい

✎アメリカより日本で読まれているブローティガン

✎アメリカに対する幻滅を早くから察知したブローティガン──わりをくっているのはカーヴァー??

✎最後の一行でびっくりさせたかったフォークナー

✦一部の質疑応答✦ 

 

 

柴田:どうもこんにちは。柴田元幸と申します。今日はゲストのような進行役のような役割になるんだと思います。どうぞよろしくお願いします。平石貴樹さんです。まずは、自己紹介を。

平石:はい。平石と申します。自己紹介ってどのくらい詳しくすればいいのかわかりませんけれども、アメリカ文学を専攻するっていう形で大学でしばらく教えておりましたが、定年になりまして、で、定年後の夢として、小説家になりたかったもんですから、その後は、勉強はやめようっていうことで。いろんな大事な本をわざと捨てたりなんかして、背水の陣を敷いて、小説を書きだしたんですが、これが全然売れないもんですから、今ではただの年金生活者になって、ま、のんびり過ごしております。そんな中で、今回、自分の小説があまりにも売れないからっていうことも一つは原因にあるんですけれども、短編ベスト10というのを出していただくことができまして、それでまあこういう機会ということになったんですけれども、どうも、今日はよろしくお願いいたします。

 

✎「普通に読んで」とは誰が?

 

柴田:この『アメリカ短編ベスト10』という本は、どういうきっかけで生まれたんですか?

平石:特に深い考えはないと言いますか、ベスト10というのは、まあ歌のベスト10というので知られてるとおり、気楽なものなので、自分でもそのつもりでいたんですけども、よく現役で教えてる頃に学生さんから、先生のベスト10は何ですかってなことを聞かれることが、柴田さんもあったと思いますけど、それでまあ作家単位でだいたい答えて、長編小説で言えば何かみたいな答えをしてた時期がずっとあったんですけども。その中で、短編で言うとどれかっていうようなことを話す機会もありまして、そういう話をしてくうちに、短編だったら全部集めて訳してみたら面白いんじゃないかなみたいなことを、だんだん思うようになったというようなところがきっかけでしたね。

柴田:最初から10本ばしっと決まったのか、それともまず何本かはまずこれは絶対決まりだというのが何本か……

平石:ああ、それはもちろんそうで、「バートルビー」なんか、ねえ、ちょっと、誰がやってもまあはずせないだろうなというようなもの、それから作品はいくつか選択の余地があるけれども、作家としてはポーとかヘミングウェイとかはずせないんじゃないかな、というようなところがあって。最後の2、3人に関して、それはこれからあとで話が出るかもしれませんけれども、まあ私はホーソーンとかヘンリー・ジェイムズっていうのは、今回割愛したというか、入れなかったわけですけれども。そこあたりでようやく少し、自分なりの選択の問題になったかなというような気はしてますけどもね。

柴田:あの、ホーソーンとかジェイムズは、評価しないわけではないんですよね?

平石:えー、短編に関してはちょっと難しい……

柴田:あ、そうなんですか。

平石:かなあ。

柴田:どっちも? ホーソンもジェイムズも?

平石:うーん、そうですねえ。いや、あの一つには、評価をする場合に、今の読者が、現代の日本の読者が読んで普通に面白いと感じるかどうか、あるいは、ちょっと研究者的な、別のスタンスを用意してこういう角度から読むと大変面白いとか重要とか、ちょっと違う、普通に読んでも面白いっていうことがどこまでできてるかっていうことからすると、ちょっとなくてもいいかなっていう気が実はありまして。それで、いずれにしても、ジュエットとかイーディス・ウォートンなんか出せば、アメリカでの小説がこういうふうにしてできてきたのかというのは読んでいただけばわかるんで、その前史みたいなものをあんまり深く掘り下げるのは、文学史的にはいいかもしれないけど、アンソロジーとしてはどうかなみたいな気持ちがあったんですけど、どうですか?

柴田:え、僕に聞かれたんですか、今? そうですね、あんまりその普通に読んでというふうに考えることはないですね。僕の好みで面白いかどうか、ということしか考えないんで、それは結構、学者としては落ちこぼれですけど、案外学者寄りだったりするのかもしれません。それで、平石さんにお尋ねしたいんですが、普通に読んでというのは誰が普通に読んでなんでしょう? このご本のうしろの解説を拝見してそういう問いが湧きました。例えば、サラ・オーン・ジュエットは、たぶん今回のアンソロジーの中で一番ユニークな選択の作家だと思いますが、そのジュエット作品の楽しさについて「現代の読者にも直通で理解されるのではないだろうか」と書いていらっしゃいますよね。つまり、こういうのを選ばれる時に、ご自分の好み以外にも、現代の読者というのを平石さんは想定される、わけですか? 

平石:一応そうですけど、そこの部分は、そういうふうに書くとわかりやすいかなと思って書いただけで、自分が、ジュエットの、特に私が訳した結婚式の短編を読んだときの、なんと言うか、心温まる気持ちがずっと忘れられなかったので、これを入れたいなと思ったというのが、まあ、出発点、なんですけどね。

柴田:じゃ、別に、「こういう読者」みたいなのを想定して、この人たちに気に入ってもらおうみたいな気持ちはそんなにあるわけではない?

平石:ええ、そんなにあるわけじゃないです。だから、その意味では、自分にとってっていうのでも同じなんだけれども、私と柴田さんは、まあ、世代が違いますよね? 

 

柴田は「ぴあ」の世代?

 

柴田:ああ、世代が、はい、ええ。

平石:そのことが、いろいろなことで今までもいろいろ考えさせられることがあったんですが、今日を機会にもしお伺いするとするとね、要するに柴田さんっていうのは私のような団塊の世代から見ると、「ぴあ」の世代で……

柴田:「ぴあ」? ああ、なるほど。

平石:はい。それで、私の高校、大学の時は、例えば朝日新聞で江藤淳が文芸時評を書いていて、今月のベスト5とかってことを平気で書いていて、今年のベスト5なんだよって。だから小説であれその他のものであれ、順番をつけたり、それからまた評価をしたりするということはわりあい自然なことだったので、で、私自身も、そういう方向で小説ってのを多分受け入れてきたと思うので、この小説はよくできてるとか3分の2よくできてるとかね、半分であるとかってなことを言うことは、あんまり抵抗がないし、そういうことをまあ、別にどんどん言っても構わないんじゃないかというふうに思ってきたわけですが、「ぴあ」の世代っていうのは、そういう評価よりは、情報提供のほうが大事、あるいは、全体の大向こうの評価よりも、個人的な好みが大事と、そういうふうに、言われてきて、で、柴田さんのお仕事の仕方を見てても、多少そういう方向の痕跡が感じられるということがあるので、そうすると、ベスト10というの、まあそれは軽い意味であるということはおわかりいただけると思いますが、基本的に小説についてベスト10というのをつけるというのは、これはとても、こう、よくないことのようにお考えなのではないか……

柴田:うーん、そうですねえ、いやでも、選者の数だけベスト10があればいいというか、僕も『アメリカン・マスターピース』というアンソロジーを作ってまして、ベスト何本だっけな、8本か9本あるわけですけど、個人的にベストいくつっていうことであれば、意味はあるんじゃないかと思います。

平石:あ、なるほど。

柴田:ええ、ええ。

平石:それ以上つっこむ話をすると、難しくなりそうなんでやめときますが、私は個人的に10編選びながらも、私が選んだものが正しい選択であるという気持ちがどっかに残ってるんですよね。つまり、私がやって、私が何かもっと大きな権威を代表してるはずだみたいな、そういう思いこみみたいなのがない世代でしょ? ま、世代というか。

柴田:そうですそうです。

平石:ないでしょ。そこの違いっていうのがもしかしたら、仕事の仕方なり、短編の選び方に表れてるかもしれないなと思うんですけど。

柴田:その世代っていうことでまとめてよければ、たしかに僕の上の世代にはそういう傾向が、平石さんを含めてあって、で、それがいいか悪いかはほんとにケースバイケースで、この人のランキングは聞きたくない、この人のランキングは尊重しようっていうような判断はいつもしていると思います。で、あの、ご本人を前にしてこういうふうに申し上げるのもあれですけど、平石さんのランキングは信用、する。

平石:ははは、はい。

柴田:でも、そう言いながら、こうやって実際短編ベスト10っていうのが出てくると、僕のはあくまでも古典篇っていうことで、だいたい20世紀の初頭ぐらいまでに限定してるわけなんですけど、むしろ、平石さんの選択のほうが個人的というか主観的というか、文学史の通説からすると、そうなのではないかなあと思いますが。

平石:あ、そうですか?

柴田:いやだって、ホーソーンとかジェイムズとかはずしてるっていう点で。

平石:はい、でも、あ、そうですかね。

柴田:でもそれは、単に通説からはずれてるっていうだけで、やっぱり自分は通説以上の正しさを有してるのかっていうことですかね。

平石:はい。

柴田:いやこれ皮肉で言ってるんじゃないですよ。

 

✎トウェインの短編ってほんとに面白い?

 

平石:ええ、私も素直にそうだと思っているので(笑)。いや、そこがちょっと、この『アメリカン・マスターピース』の話を比較対象のためにしてよければ、そうですねえ、えっと、O・ヘンリー入ってましたよね?

柴田:はい。

平石:それからトウェインが、トウェインのことをちょっと伺いたいわけですけども、トウェインって面白いんですか、短編。

柴田:えーっと、面白いのと面白くないのはもちろんありますよ。

平石:じゃ、この「ジム・スマイリー」は面白い?

柴田:面白い。はい。

平石:どこが面白いんですか?

柴田:語り口。

平石:あ、語り口ね。それを例えば日本語に写すときの、なんか楽しみみたいに、感じて。

柴田:ええ。でももちろん限界も感じますけど。

平石:ああ、はーなるほど。

柴田:翻訳したときに面白さが伝わりにくいものだろうとは思いますけど、この間村上春樹さんとしゃべったときも、イギリスの短編とアメリカの短編を比べてみると、イギリスの短編はやっぱりこう、描写ということに長けてる。で、アメリカの短編で長けてるものはやっぱりまず、声だろうと。で、そう考えると、やっぱりマーク・トウェインとか、もう今はあんまり読まれないですけど、リング・ラードナーとか、そういうのがやっぱりアメリカ的な面白さを体現してるんじゃないかと。

平石:いえいえ、ちょっと、学校の先生みたいなこと言ってません?

柴田:いや、これは本気ですね。

平石:ああそうですか。

柴田:僕、声、ということにはかなり思い入れがあるみたいです、小説の。

平石:ああ、そうですか。私はO・ヘンリーはサービスとして入れるかもしれないけど、トウェインはちょっとどうなんだろう。特に「ジム・スマイリー」はどうなんだろうなあというような気持ちがありましたので、これだったら、あのー。

柴田:マーク・トウェインの他のものだったら入れるとかいうことはありますか?

平石:短編でですか?

柴田:ええ。

平石:うーん、なかなか難しいですねえ。

柴田:長編はどうなんですか、『ハックルベリー・フィン』とか……

平石:はい、傑作だと思いますよ。

柴田:ええ。

平石:まあベスト10の、5位くらいには入るんじゃないかな。語り口ねえ。うーん。ただ、そっか、私はやっぱりお話がある程度ちゃんとしてるとか、筋がまあちゃんとあるとかね、そういうようなことがある程度やっぱりベースになって選んでるのかもしれないですね。

 

✎バーセルミが入っていないのに、なぜブローティガンだけ偏愛するのか

 

柴田:じゃ、例えば、現代だったら、ドナルド・バーセルミみたいなのは入らない?

平石:入らないですね。わかんないですしね私。

柴田:あー。そうすると、そこで、リチャード・ブローティガンだけはなんでそんなに偏愛するのかっていうのは結構謎ですね。ブローティガンもそんなに話がある人ではないでしょう。

平石:うーん、どうして? 柴田さんも好きでしょ?

柴田:僕も好きですよ。もちろん好きです。

平石:なので、やっぱりいいんじゃないですかね。つまり、ブローティガンの時代だけ、60年代70年代だけ、小説が壊れたっていうことが、なんていうか、あの表に出せるっていうか、自負できる時代だったのかなという気が、今になってみるとしますけどね。彼だけはたしかにあんまりきちんとしたお話を書けなかったんだけど、ま、書けないことを書いてるみたいなことが、世代的にはぴったりだったのかなあっていう。

柴田:あの、世代的時代的ってことだと、きちんとした話書かないってことで言うと、バーセルミもほとんど同世代で。

平石:うーん。

柴田:そういう意味においては似たようなことやってたわけだけど。

平石:うーん。

柴田:でも、全然、感じは……

平石:うんうんうん。

柴田:違うんですね。

 

やはりリアリズムがベースにあるべき?

 

平石:もう一つはだから、こんなことまで言うべきかどうかわかんないですけど、現実的というかリアリズムがベースにあるかないかみたいなことはかなりあって。

柴田:あー、ま、バーセルミは現代美術やって、現代美術を小説に写したってところありますよね。

平石:はい。それで、一応ニューヨークの話だっていうふれこみなんだけど、別に読んでみてもニューヨークのことがよくわかるようにならないしなあというような、そういう不満がちょっとあって。ブローティガンだったら、サンフランシスコ界隈の、アメリカの、若者たちのことがわかるかなあっていう。そういうリアリズムってことなんでしょうね。それがおっきいような気がします。……それがね、そこの点は、これもまあ世代って言ってしまえばそれまでですけど、ちょっと話が抽象的になって申し訳ないが、さっきからO・ヘンリーとマーク・トウェインはいかがなものかって言ってるのは、理由は全然違いますけど、O・ヘンリーはちょっとプロットが勝ちすぎてるという……

柴田:ええ、ええ。

平石:感じがするし。その、マーク・トウェインは、だらだらした話を聞くっていうことが勝ちすぎてるわけですが、いずれもだから、普通の人の生活を描いた小説っていうイメージから、ちょっと遠いような……

柴田:そうですね。

平石:ケース、で、そこが私にはいつの間にか、マイナスポイントって言いますか、ような感じかな、という気がします。だから、ポーも実は難しいんですけれども、一つくらいほんとの、最初の時期の、一人くらいはまあいいかなということで、ポーも入れましたが、ほんとはあんまり好きじゃないっていうか。

柴田:あ、そうですか。

 

ポーが最後まで本気で書いている短編

 

平石:はい。私、ご承知のように、大学辞めてから書いてる小説ってのは探偵小説なんで、その意味ではそのエドガー・アラン・ポーっていうのは天才だと思って、もちろん尊敬しているわけで、ポーのお墓参りはそんなしょっちゅう行けないので、名前を語った江戸川乱歩先生のお墓には月に一回くらいはお参りして……

柴田:ああ、そうなんですか?

平石:はい。なんにもいいことないですけど。なので……

柴田:ええ。

平石:そのリアリズムっていうものが、まあ例えば探偵小説書くときどうなるのかっていうのはね、なかなかややこしい問題がありまして、悩んだりしたんですけども、その中では、私が選んだヴァルデマー氏の催眠術の話っていうのは、そこそこ、もちろんモルグ街の殺人でもよかったんですけれども、ちょっとあまりにも有名すぎるかなあと思って、少し避けたような次第です。

柴田:この「ヴァルデマー氏の病状の真相」をポーの中からお選びになったのが、どうしてなのかなと思ってたんですけど、今までのお話をうかがって、腑に落ちてきたっていうか、要するに、これ結構真面目に書いてますよね?

平石:はい。

柴田:あの、ポーの話って、どこまでこう、なんていうか、作り物的なのかとか、どこまでふざけてるのかとか、よくわからないことが多いと思います。でもこれについては、最初はなんかこのヴァルデマー氏というのが、シラーの『ヴァレンシュタイン』とラブレーの『ガルガンチュア』の長大なポーランド語訳を刊行した翻訳者でもあるとか、ほら話っぽく書いてるんだけど、だんだんそういうのがなくなって、ほんとにこう、死ぬ直前の人間に催眠術かけたらどうなるかということを結構本気になって最後まで書いてる、というところがやっぱりいい……わけですよね?

平石:そうですねえ。はい。ジュエットの場合とおんなじで、これも最初に読んだときの驚きがずうっと忘れられなくて、それでもちろん「黒猫」とかそういう有名な作品でもよかったんですけども、今回これはちょっと紹介させてもらいたいなあ、みたいな気持ちはありましたねえ。

柴田:一番有名な短編って言ったら、文学史なんかでまず出てくるのは「アッシャー家の崩壊」だと思いますけど。

平石:あれはあんまりこわくない。

柴田:ああ、やっぱり。あれはなんかこう、ほんとにこう、作り物っていうか、メタゴシック小説っていうか、そういう感じがしてるんですけど。

平石:はい。

柴田:やっぱりそれでいい……いいですかね?

平石:いいと思いますよ。

柴田:よかった。なんかこう、平石さんに是認されるとほっとするっていうところが未だにあり、っていうか永遠にあると思いますけど、はい。

平石:まあ、ポーとかゴシックとか、その時代とか時代精神を研究する人にとっては「アッシャー家の崩壊」っていうのはいろんな豊かな内容が詰まってるのでしょうけれどもね。普通にお話として読むとちょっと作り物めいているなあという……

柴田:はい。

平石:感じがします。

 

✎「バートルビー」のわからなさは、わからないままにはできない何か

 

柴田:はい。で、ポーの作品について具体的に伺ったので、せっかくですから、一つずつ順を追って、ちょっとずつ、伺ってもいいですか?

平石:はい。

柴田:次はメルヴィルの「バートルビー」。これが唯一、僕の『アメリカン・マスターピース 古典篇』(注:スイッチパブリッシング刊)とだぶってる。

平石:あの唯一じゃなくて、ジャック・ロンドンもだぶってる。

柴田:あ、失礼。そうでしたそうでした。

平石:すみません。

柴田:いえいえ、そんなところで謝らないでください。で、「バートルビー」は「わからない」ということが、解説のキーワードにやっぱりなると思うんですけど。

平石:うん、うん。

柴田:要するに、なんでこの人は、仕事も辞めて、食べるのもやめて、死んでいくのかっていう。

平石:うん、そこで、微妙な問題ですけれども、わからないっていうことを手放しで喜ぶっていうか、する気はあんまりないんですけども、まあわからないですからね、たしかに。

柴田:僕はあの、理論は全然落ちこぼれなので、ディコンストラクションとかああいうの全然ついていけなかったんですけど、とにかくこう、決められないとか、わからないっていうのが、むしろ批評のスゴロクのあがりであるような時期に大学院生をやっていたので、その、わからないっていうのが、つい、こう、それでいいのだってことにしてしまいがちなんですけども、バートルビーの場合には、わからないことをなぜか、申し訳なく思うというか、疚しく思うというか、なんかわからなきゃいけないような気にさせられる……

平石:はい、はい。

柴田:……作品であると。で、それがなぜなのかはやっぱりわからない。

平石:はい、そうだと思います。まあ、だからなるべく詰め寄る形で、あとがきにしてはえらく長く書いちゃったんですけども、そういう思いの丈を抱かせる作品かなあというふうに思っています。これは、そうですねえ、「乙女たちの地獄」っていう短編がありますけれども、まあああいうのでもよかったのかなあとは思いますけど、やっぱり……

柴田:いやあ、「バートルビー」ですね、はい、と思います。

平石:はい。

 

✎ジュエットの短編はどれもいいのか

 

柴田:で、次の、やっぱり二本っていうのが、普通アメリカ文学ベスト10っていう中にはなかなか入ってこないんじゃないかっていう、セアラ・オーン・ジュエットの「ウィリアムの結婚式」。これについてはどうですかね……って聞き方もよくないですけど。

平石:いやあ、いいんじゃないでしょうか。正直に言うと、訳したときは、最初に読んだときとか授業でやった、これ大学院の授業でやったことあるんですけど、これすごいねみたいな話をしてたんですけど。

柴田:そうすると学生もすごいですね、とか言うわけですか?

平石:はい。言ってましたよ(笑)。そのときの興奮はあまり戻ってこなかったんですけど(笑)。もうちょっとしっかり書いてほしいなあみたいな面はあったんですが、それでも、傑作の中には入るだろうなあということでやってしまいました。やっぱり、それがたまたまこの表紙に使われて。

柴田:この、子羊の。

平石:ええ。羊を、ね、子羊を抱いた結婚式って、やっぱりねえ。

柴田:たしかにそこは面白いですね。うーん。ジュエットの短編って、どれもそんなにいいわけではないんですよね?

平石:うん、うん。

柴田:これがちょっと突出して……

平石:そんな気がしますねえ。あとは連作みたいな形のものが多いので、背景を知らないとちょっと繋がりがわかんないってのがあったり、それから一番有名なのは、なんでしょう、“White Heron” ですか、はねえ、ちょっと、いかにもアンソロジー・ピースという感じでしたし、やっぱりこれじゃないかなという。

柴田:わりとなんか、一人の、こうちょっと、印象的なキャラクターにスポットを当てて、みたいな印象はどうしてもありますよね。

平石:はい、はい。

 

✎「ローマ熱」の驚きの結末

 

柴田:で、それに比べると、次のイーディス・ウォートンという人は、どれも平均点以上の短編を書く人。

平石:はい、そうなんですよね。だから、この時代に、小説の書き方っていうのはマスターされたんでしょうね、作家たちによってね。だからどれも平均点以上なので、そういうタイプの作家なので、思いっきり一番、なんていうか、悪受けしそうな、というか、そういうものを選んでみましたけど、まあもちろん、ghost stories でもいいものはたくさんあるし。

柴田:All Souls とかね。

平石:ほかにもいいものいっぱいあるんですけど。ちょっと派手めを狙って本にしてみました。

柴田:これの、surprise endingってことで言うと、O・ヘンリー並みというか。

平石:はい、はい。

柴田:最後の一行で、おおおって、なるでしょ?

平石:はい。やっぱり時代、なんでしょうね。ウォートンのやつは、もう1920年代なんじゃないかな、晩年の作品で、とっくにO・ヘンリーが出てくるわけで、ずいぶんそのへんが小説、まあ、商品としての小説って言いますかね、それを変えたのだろうなあということは考えさせられますね。

柴田:エンディングがあれだけ肝になってるんだけど、エンディング知って、また読んでも面白いですよね。

平石:うん、だから、わりとその、恨みに思いながら生きてきた年月とかっていうことがその伏線としてはきちっとできてるっていうことでしょうかね。

柴田:そっか、二度目以降は作る側、書く側に寄り添って読めるというか。

平石:はい、はい。

 

✎イーディス・ウォートンのほうがジェイムズより偉い?

 

柴田:なるほどなるほど。で、ウォートンは、なんていうか、ヘンリー・ジェイムズを、もう、文学的兄みたいに見て巣立ってるところがあって、それでなんか、損してる気もするんですけど。ghost stories なんかも、ジェイムズの ghost stories と比べられて、ちょっとわかりやすく言うと、通俗的かなみたいな感じで片づけられがちな。

平石:いや、それは、アメリカはそうかもしれないけど、かなりの程度、日本のジェイムズ研究者が巻いたデマみたいな、なので(笑)、あまり。ウォートンのほうがジェイムズより偉いと思いますよ、ということを言う人がもうそろそろ出てもいいんじゃないかなと思うんですけど。

柴田:え、平石さん、それ、前からおっしゃってるんですか?

平石:ま、少なくとも同じ程度には立派ではないかと。で、ジェイムズっていうのは、小説家のための小説っていうんですかね、あるいは、研究者のための小説みたいな面があるので、普通の素人の小説家にしたら、ウォートンのほうが完成者ということでいいんじゃないかなと。ただまあご承知のように小説っていうのは完成すれば一番偉いってことじゃないですから、その先はもちろんあるんですけれども、とりあえずこういう形で次々にすごいのを書き、そして、19世紀後半の男女のねえ、生活とか上流階級の生活を書いたという点では、まったく問題のない、偉い作家ではないかと思います。

柴田:長編はどうですか、ウォートンの。The Age of Innocence とか。

平石:ええ、もう、もう、泣きそうです。

柴田:泣きそう……

平石:すばらしいと思います。

柴田:それも、やっぱりヘンリー・ジェイムズの長編と比べても、やっぱり……

平石:もちろん、通俗的ですよね(笑)。で、いろんなその、泣きそうになるんだけど、作者が泣かせるために書いてんだろうなってこともまあちょっとわかる、みたいな、そういうところがあるので、癪に障るという面はありますし、それで、そのお話を読んで泣くか泣かないかっていうのは小説にとってそんな大事なことかどうかもよくわかんないし、冷静になると少し、だから、点数は下がるんですが、かといって、ジェイムズの難しさっていうのはねえ。

柴田:はい、いや、僕これ、全然答え無しで訊いていて。というのは、ほんとにジェイムズの長編、未だに読めない……んで。

平石:ああそうですか!

柴田:だってあんな難しいもんどうやって読めるんですか。というぐらい難しいです。

平石:はい。

柴田:特に後期のは。

平石:はい。

柴田:ええ、なので、ほんとにわからないんですけども。

平石:はい、それをこう、分け入って分け入って、行った先に何かある種の、深い感覚なり衆情なりがあるっていうことはもちろんわかるんですけれども、そこに行くまでの手続きがちょっとめんどくさすぎるんじゃないかなあっていう、ような印象はどうしてもありますねえ。

柴田:それを聞いてちょっと安心しました。

平石:いえいえ。

 

✎死の恐怖に直面しないと成り立たない小説

 

柴田:安心しちゃいけないか(笑)。はい、えー、次がジャック・ロンドンの「火をおこす」(注:柴田氏訳は「火を熾す」)。

平石:これは(注:柴田元幸編訳『アメリカン・マスターピース 古典篇』[スイッチ・パブリッシング刊]と)共通してるものです。

柴田:はい、ええ。これはもう、文句無しの傑作だと僕は思うので。

平石:はい。

柴田:ちょっと違うところから話をはじめると、村上春樹さんの「アイロンのある風景」という、『神の子どもたちはみな踊る』のなかに入っている短編があります。あの中で、登場人物の一人が大学の授業で、いや高校だったかな、「たき火」というタイトルでこの「火をおこす」を読んで、要するに、この登場人物はほんとは死にたがってるんだというふうに感じます。それで、学校の先生とかはそんな読みは間違ってると言って相手にしないわけだけど、作品は結構その、彼女の読みを肯定してるように読めるんですけど。あの読みはどう思われますか。

平石:いやあ……ありていに言えば、まあ、病気の読者がそういうふうに思うのかなあという。

柴田:病気の読者?

平石:はい。

柴田:病気って言うと?

平石:つまり、その、読者側も死にたがってる。

柴田:ああ、なるほどね。

平石:それは当然そういうことなんだなあという気がしますけどね。つまりどっかで、最後の場面は別としてね、どっかで死の恐怖っていうのに直面しないとあれ小説として成り立たないでしょ? 

柴田:たしかに。

平石:そうすると、思ってもいない死の恐怖が突然訪れたっていうとこで、やっぱり、迫力出してく作品じゃないかなあと思うんですけど。

柴田:死にたがってるわけでは、別になくて。

平石:うん、うん。

柴田:なるほど。

平石:でも、うれしかったって言うか、私、あっそうだ、あの最初に申し上げるべきだったかもしれませんけれども、このベスト10っていう企画を、さっき申し上げたような事情で思いつきまして、いくつか訳し始めてたところで、この柴田さんの『アメリカン・マスターピース』があるということに気づいて、慌てて見てみたら、「バートルビー」とこの「火をおこす」がだぶっていて、困ったなあっていうことだったんで。

柴田:あ、そうなんですか?

平石:ええ。困ったんだけれども、まあ柴田さんのはまだ続きがあるので(注:『アメリカン・マスターピース 現代篇』[スイッチ・パブリッシング刊行予定])、こっちはまあ10編しかないから、こそこそっと先に出しちゃおうとか思って、急いで頑張ったんですけど。

柴田:はい。

平石:で、その時に、このジャック・ロンドンがあるのを見つけて、もちろん柴田さん、ロンドンのものはだいぶ前からやられてるわけですけど、一つ選ぶとすればこれだっていうことで、そのロンドンの、さっきのウォートンの話じゃないですけれども、わりあい、犬の小説とかが有名で、このクロンダイク(Klondike)の短編集っていうのはそんなに知られてなかったですよね、今まで。

柴田:短編集としてはそうかもしれないですね。

平石:ええ、なので、これは有名な作品ですけれども。

柴田:この「火をおこす」はそうですね。

平石:なので、そういう意味でも、この「火をおこす」をはじめとするアラスカものっていうのは再評価されてもいいんじゃないかなあ、ある種の、と思っています。

 

「あの夕陽」は誰の物語なのか

 

柴田:わかりました。で、次はウィリアム・フォークナーの「あの夕陽」ですね。フォークナーは平石さんの専門なので、僕は何も偉そうなことは言えず、これはとにかく、子供が三人出てきて、で、下の二人、真ん中の女の子と下の弟はとにかくよく喋って、ああだこうだ訊いたりコメントしたりする。で、上の子はほとんど喋んないけれども、最終的にはこの「あの夕陽」というのは、この、上の子供の物語、要するにクエンティンの物語だというご指摘はもう、なるほどと、納得いたしました。

平石:ええ、柴田さんはまだあの準古典篇というので、フォークナー、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、オコナーと、ここまでは挙がってるんですが、それぞれどんな作品をやられる予定なんですか?

柴田:フォークナーだと多分「納屋を焼く」だと思います。

平石:ああ、それは村上さんに対する敬意からですか?

柴田:え、それはまったくないです。ええ。村上さんに敬意がないわけでないですけども(笑)、この作品について村上さんに義理があるということのはまったくないです。

平石:うん、あれもいいですね。

柴田:もしかしたら、 “Dry September” ……いや、それはないですね。やっぱり「納屋を焼く」だと思います。やっぱりフォークナーは、むしろこう、物語にすぐ入ってけない不透明感みたいなのが好きなので。

平石:はい、はい。

柴田:そうすると、「納屋を焼く」はかなりこう、入っていくまでに、抵抗があるんで。

平石:はい。

柴田:重い水を通ってくみたいな。

平石:出だしはそうですよね。はい。

 

フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、オコナー短編の「この一作」は?

 

柴田:そこが好きですね。はい。で、フォークナー以外は誰についてお訊ねでしたっけ、フィッツジェラルドか。フィッツジェラルドが一番迷います。やっぱり……多分 “Babylon Revisited” か、“The Rich Boy” だと思うんですけど、フィッツジェラルドが一番選びにくいのは、それこそ村上さんの影響だと思います。

平石:うんうん。

柴田:フィッツジェラルドについて、村上さんがこれがすばらしいと言うと、そうかあ、とかすぐ納得してしまうので。これはもうちょっと自分の尺度で、もう一回自分の好みで、一通り読み直したほうがいいだろうと思っています。

平石:ああ。はい。

柴田:で、ヘミングウェイは、多分 “Indian Camp” かなあ。

平石:うーん。

柴田:ヘミングウェイもまあ一冊アンソロジー作ったわけですけど、それでもまだ、これだというのはいまひとつ実はわからないですよね。でもとにかく、「心が二つある大きな川」ではない、ということだけわかります。

平石:はあー。あれは長すぎる?

柴田:あれは、なんというか、きれいにまとまりすぎてる。話の中身がまず、一種の儀式だし、で、その儀式をきちっと見せてもらったという感じがして、それはあんまり気持ちがよくない。きっちり書かれていることは認めざるをえないですが。

平石:うん。

柴田:ダメな短編だとはまったく思わないですけど、好きかと言われるとそういうことではない。

平石:ああ、そうですかあ。

柴田:ええ。

平石:いや、面白いですねえ。私結構好きですよ。登場人物。まあ『老人と海』もそういうとこありますけど、登場人物一人だけであれだけ書けたらすごいなあっていう。よく話し相手も誰もいないのに小説になるなっていうところが……驚きでしたけどね。

柴田:なるほど。

平石:それは置いといて。オコナーはいかがですか?

柴田:オコナーは、多分、「善人はなかなかいない」。

平石:ああ、はあはあ。あの、こじゃれちゃうやつね。

柴田:はい、それか、“The Artificial Nigger”。

平石:ああー。うーん。

柴田:あとは平石さんの挙げてた、“Good Country People”、そのあたりですね。

平石:準古典篇にとりあえず四人例示されてるわけですが、そのほかにどんな作家が……

 

「サニーのブルース」の兄はなぜジャズを雄弁に語れるのか

 

柴田:この平石さんのアンソロジーと重なるのはボールドウィンの「サニーのブルース」。

平石:急いでやってよかったです。

柴田:いや。

平石:ちょっと長すぎますかこれ。

柴田:ま、少し長くはあるんですけれども、この(注:『アメリカ短編ベスト10』の)254ページから256ページの、日曜の夕方に、だんだん外が暗くなってくなかで、故郷の人たちが話しているって、このあたりの描写というか語りは、もう何度読んでもすばらしいと思います。「しばらくのあいだ、誰も……その日はもう話をしないだろう。(注:柴田氏が朗読)」と。ここはほんとに何度読んでもいいと思います。で、大好きなんですけど、最後のジャズやるところは、いろんな人に説得されるんだけど、まだ100%納得していなくて。つまり、この兄弟がいて、弟はジャズ・ミュージシャンなんですけど、兄貴は学校の先生で真面目でスクエアな人で、ジャズとかいまひとつわかんない、ジャズのノリがない人として始まるじゃないですか。で、最後でなんで彼がジャズをこんなに雄弁に語れるのかっていうのが、途中いろいろこう、通りから聞こえてくる音楽に反応するとか、下準備があるんですけどね、そう急に音楽について人は雄弁になれるものだろうかっていうのが、やや疑問ではあります。

平石:なるほど。

柴田:ええ。

平石:ちょっとハッピーエンドに急ぎすぎたっていうか、急いだわりにはこれも小説すでに長いですけど、そこの苦労もまた、あのワンセッション書くとなるとまた長くなるから……

柴田:そうですね。

平石:はしょっとたという……しかし、今読んでいただいたところは、私の文章ですか?

柴田:はい。

平石:ああ。柴田さんはわりと自作の朗読とかなさる、人のものまで。読ませちゃって申し訳なかったですけども。聞いてて、まあわりとあれですよね、小説の文章になってますよね?(笑)

柴田:いやすばらしいと思いますよ。はい。

平石:ねえ。どこだかわかんないんで聞いてくうちに、なかなかいいなあというふうに思わず思いましたけど。すみません。

柴田:いえいえいえ。ですからこのボールドウィンが入りますね。

平石:はい。

 

平石が選んだ「殺し屋であるわが子よ」は柴田は選ばない

 

柴田:あとはマラマッドも入りますけど、マラマッドは、あの、違う短編になると思います。この「殺し屋であるわが子よ」っていうセレクションは、結構ユニークだよなって……

平石:いや、これもあの、短編集読んだときに、なんかものすごく印象に残っちゃって、これもベストじゃないかなあとずっと思ってて。実際訳してみると、今度は短すぎてね、少し不満もあるんですけれども。ただまあ、言っている、あの、言おうとしてることはやっぱりマラマッドなりの真実なんじゃないかなという気持ちは、やっぱり今でもありますね。

柴田:この「殺し屋であるわが子よ」というタイトルの原題は “My son, the murderer” で、これは要するに、ユダヤ系の親ばかについて語るときに My son, the doctor とかいった言い方を持ち出して、要するに、特に母親なんかが、うちの子は秀才なんだ、みたいな時に My son, the doctor みたいなことを言いたがる、それのもじりですよね。だから、ユダヤ系の暮らしをいかにも正面から書いていたマラマッドが、ちょっとこう、ひねったところにきてる段階の作品だと僕は思っていて。だから、マラマッドの典型ではない気がするんですけどね。

平石:うん、うん。

柴田:ま、別に典型でないからベストでないってことではないんですけど。多分だから……

平石:あれですか、なんかあの少年が図書館にいるような小説ですか、典型っていうのは。

柴田:「夏の読書」ですよね──あの話は僕もあんまり好きではない。僕はむしろ「白痴が先」っていう、死にかけたおじいさんが、ちょっと知恵遅れの、もう中年の息子をカリフォルニアに送り届けようとして死神に邪魔される話とかが好きです。あとはそうですねえ、短編集『魔法の樽』の中の「魔法の樽」っていうタイトルストーリーは、いまひとつ好きではないんですけれども。「最後のモヒカン族」っていう、あの、たかりみたいな男にからまれて、なんか一種それが主人公にとってのモラルテストになるみたいな、ああいう短編とかですね。

平石:こうしてうかがってると、柴田さんはかなり好き嫌いありますねえ。

柴田:ありますね、ええ。はい。

平石:それをどっかに書かれたら面白いんじゃないかと思いますけど。つまり、選ばなかった……

柴田:あ、つまり、そう、だから、ヘミングウェイの作品集をこれから出すんですけど「心臓がある二つの大きな川」を入れるか入れないか、いまだに迷ってるんですよね。それで、マラマッドの一冊、自分で選んだコレクション作ってますけど、あれも「魔法の樽」、一回訳したんですよね。で、翻訳も出来上がったんだけど、やっぱり好きじゃないなと思って……

平石:うーん。

柴田:結局捨てました。

平石:うーん。

柴田:そう言われてみれば、ありますよね、好き嫌い。

平石:ええ、その嫌いなほうについての発言していただくと、これから面白いんじゃないのかなと思いますけども。

柴田:いやでも、否定的なことは、あんまり活字では言わないことにしてるんで。

 

柴田の翻訳に最近古典的な作品が増えているのはなぜ?

 

平石:はい。あの、ついでにうかがうと、柴田さんって言えば、何十年も新しい作家の紹介っていうようなことでずっとやってこられたわけで、今もそれは続いているでしょうが、この頃、メルヴィルとかジャック・ロンドンとか、トウェインとか、ちょっと古い作家が増えてきたように思うんですけど、これはどういう……

柴田:えっと、それはですね、やっぱり、雑誌をやっていてお金がないってことが一番おっきいです。

平石:あっ、著作権?

柴田:著作権。

平石:要するに払わなくてもいい。

柴田:ええ。とにかく、どうやって面白く、かつコストを下げるかを考えると、著作権がなくて、それを編集長の僕自身が訳せば翻訳料も要らないし。で、実際考えてみたらいい作品たくさんあるし、ということで、こんないい話はないっていうふうに考えて、ここ数年それをやってきました。だからなんか、歳とってだんだんこう、古典に回帰してきたとか、あんまりそういう感じではない。

平石:ああそうですか。

柴田:ええ。

平石:それはがっかりです。

柴田:そうですか(笑)。え、そのほうがいいですか、歳とって古典に帰るほうが……

平石:いいかどうかわかんないけど、まあねえ、みんな歳とるとこうかなあ、みたいなことを思ってたんで……はい、失礼しました。

 

ヘミングウェイ「何かの終わり」は男性本位でけしからん?

 

柴田:いえいえ。で、今、マラマッド、ボールドウィンって話が出たんで、その間でとんでるのが、ヘミングウェイですね。僕の話はしちゃいましたけど、平石さんがお選びになったのは、「何かの終わり」っていう……

平石:はい。

柴田:"The End of Something" っていう。

平石:これも読んだときの印象がずっと残ってたというのが一番大きな理由……ですね。ちょっとまあ気になるのは有名すぎるというところかな、あるいはちょっと話が派手すぎるっていうか……

柴田:ええ、ええ。

平石:これじゃあちょっと、短編集の冒頭の作品としてはいいかもしれないけど、一個だけじゃちょっとなんかどうなんだろうと、そういう感じがあって、「何かの終わり」っていうのは実は後日談が別の短編小説になってるわけですけど、それは一応切り離しても大丈夫だろうというふうにと思って、翻訳しました。これ、読んだ時にほんとに、こんな、なんて言うか、なにも言わずに、ただ毛布にうつ伏せになって、かわいそうだなあというような感じが大変強烈で、まあ、それなのに、作者はまったくあたかも主人公に愛情持っていないかのようにあっさりと小説を終えるという、その、なんか、角度のつけ方が新鮮だったっていうんでしょうかね……

柴田:うーん。

平石:そういう感じがしました。

柴田:例えばサリンジャーの「バナナフィッシュ日和」ってあるじゃないですか。で、あれをこう、カルチャーセンターみたいなところで読んだことがあるんですけど。その参加者の一人の感想で、要するに男が自殺しますよね。で、こんな身勝手な奴はいないって言って、後に残された自殺された側の、女の人の気持ちは考えないのかと。そう言われてもなあと思うんだけど、だけど、この「何かの終わり」だと、簡単に言うと男の子がもう女の子を好きじゃなくなる話じゃないですか。すると、女の子がかわいそうだなあと思ってしまうんですよね。で、どうして自分の中で、あっちはそう言われてもなあと思う、こっちはむしろそれとおんなじような反応してしまうのかというのが、わからないままここに来てるんですが。

平石:いや、そうですよね、それはおっしゃるとおり。まあ特にニックとマージョリーのあれについては、フェミニズムがはやった時代から、大変男本位でけしからんということは繰り返し言われてきたんで、それはまあそういう面はあるだろうなあと思いますけどもね。ただまあ小説っていうのは、主人公に感情移入しろっていう、シグナルがどっかで出てるでしょ? きっとねえ。で、それに沿って読者は読まざるを得ないので、それは読者が男だろうと女だろうと、多分同じようなんじゃないかなと私は思ってるんですけどね。それを離れて、周りの人の視点から読んでみるとか、それはまあ研究者がときどき頭の体操のためにするのはいいけども、小説の読み方としてはねえ、ちょっといかがなものかと思いますが。

柴田:だから、そういう意味で言うと、僕はこの小説がまだ読めないってことなんですよね。

平石:うん、ついマージョリーが気になっちゃう。

柴田:うーん、実はマージョリーもそんなに気にならないんですよねえ。単に、この男のほうが勝手だなあって思ってしまう。

平石:でも、苦しんでるじゃないですか、その、勝手な……苦しみ……

柴田:その、苦しみ……苦しみがあんまり伝わってきてないんだと思う。

平石:それは伝わらないように書いてるからで。

柴田:でも、平石さんには伝わってるわけでしょ? だから、すぐれた読者には伝わる。

平石:いやそういうことじゃなくて、苦しいんだけど伝わらないように書くんだぜ、みたいな、そういう、そのヘミングウェイの、そのかっこよさで。

柴田:そうか。はい。

平石:はい。

 

「シェフの家」は「あの夕陽」より腑に落ちにくい。なぜか。

 

柴田:で、マラマッド、ボールドウィンと来て、で、カーヴァー。

平石:はい。

柴田:ですねえ。で、この「シェフの家」という作品は、要するに、一度壊れたカップルが、もう一度やり直すのにすごく条件のいい場所を与えられて、やり直しがうまくいくようになる。でも、ちょっと悪いけど、お前ら出てってみたいに言われて、結局やり直せない。で、女はやり直そうとするんだけど、いやもう俺たちはやり直せない、やり直そうとすればそれは違う人間になるということだ、みたいなことを男が言いますよね。平石さんは解説で、この男の言葉がどういうことなのかということを丹念に解説していらして、説得されました。この解説でお書きになったようなことは、一読ですぐわかったんですか? それがすごい……

平石:すぐかどうかわからないけど、読んだときに、ああこれはすごい小説だなあとは思って、すぐに授業でやろうとしたのかな、学部の演習かなんかで。やって、もう一回読みながら考えて、以後、その解釈にたどり着いたっていうようなわけですけれども。学生さんにも当時は質問もしてみたんですけど、ある意味難解な小説なんですよね。それで、ちょっとフォークナーの「あの夕陽」も、実は非常に、沈黙がちな、ただ周りの言うことを説明してるだけに見えるクエンティンが、実はこの物語の中心であって、主題になってるっていうことも、すぐにはなかなかわからないように書かれているっていう問題がありまして。それで、わりと、大学の先生は、解釈にたどり着くのに時間がかかる難しい小説だと、それはすぐいい小説だというふうに言いがちな面があるんですけれども。私は別にそう思っていないので、この「シェフの家」と「あの夕陽」と、その難解な小説が二つも入ってるっていうのは、ちょっとなんか私が難解好みみたいに見えたら困るなあっていうような心配はしたんですけれども。でもまあこの二つは大好きなんではずさないでおこうか、ということですね。

柴田:その二つの難解さはかなり違っていて、「あの夕陽」のほうは、なんていうか、構造的な難解さというか、構造が見えれば腑に落ちるという、で「シェフの家」は人間心理の難解さっていうか、この人がどうしてこういうことを言うのかという難解さですよねえ。だから「シェフの家」のほうが腑に落ちにくいというか、なんていうか、小説の構造は別にそれを自分に当てはめる必要はないけど、登場人物の言動っていうのはやっぱり自分を当てはめて、そういうこと自分にできるかなあとか、やるかなあとか思ったりするんで、そうすると、僕はこんな立派なことは絶対言えないだろうと思う(笑)。

平石:いや(笑)、小説の主人公は立派ですよそれは。

柴田:そうかあ、そうですかあ。

 

「ウェイクフィールド」はホーソーン・ファンからするとちょっとずるい

 

平石:ええ、みんな。それでそのわからなさについてむしろ話を引っ張るとすれば、柴田さん、「ウェイクフィールド」を入れてらっしゃいますよね? それからこの「バートルビー」と。この『アメリカン・マスターピース』を読み始めると、最初の二つがわからない小説……

柴田:たしかに。たしかに。

平石:ですよね。これはどういうふうに……最初の二つではないですね。「モルグ街の殺人」っていう非常に鮮やかなわかる小説が入っているのですが、「ウェイクフィールド」、「モルグ街の殺人」、それから「バートルビー」と。

柴田:はい。

平石:並んでいて、この二つはどうなのかなあっていうのは、その、カーヴァーやフォークナーがわかりにくいっていうのとはちょっと違う……

柴田:そうですね。

平石:ねえ。感じなんですけど、柴田さんはこういうほうがむしろはっきり、つまりはっきりわからないほうがいい、みたいなことはあるんですか?

柴田:どうかなあ。それは考えたことないですねえ。ホーソーン、メルヴィルの中で好きなものって言うとこれになるっていうこと以上のことを今まで考えたことないので、すぐに答えられないんですけど。

平石:補助線になるかどうかわかんないけど、「バートルビー」はまあ、誰が考えてもメルヴィルの代表作の一つで、「ウェイクフィールド」っていうのは、ホーソーンファンからするとちょっとずるいなあっていう。

柴田:國重(注:國重純二氏)さんなんかもよくそう……

平石:あ、そうでしょうね。そういう感じがあるので、そのへんはどうなのかなあという……

柴田:そう言われてみればそうですね。だから例えば、"Young Goodman Brown" みたいに、人間の精神の闇の話だとか、あるいは、"The Birth-mark" みたいに、科学過信の話だとか、そういうふうにテーマがはっきりあることにはあんまり魅力感じないですね、たしかに。

平石:うん、うん。そうすると、あんまり残ってないんですよね、残らないですよね。

柴田:うん、これぐらいですかね。

平石:うん、「ウェイクフィールド」ぐらいかなあ。でもこれは特にホーソーン的という感じがしないので、ちょっと中途半端ですね、私はちょっと、採点が。

柴田:典型的なホーソーンという感じではないですよね、たしかに。

 

アメリカより日本で読まれているブローティガン

 

平石:で、最後がまたブローティガンに戻って、めでたしめでたしっていうことですが。これは、その次点っていう手を思いついたので、とてもいいなあと思ってしたんですけど、まあベスト10に入れるにはちょっといくらなんでも弱いなあという、気はしておりますが。私の世代を含めて私の趣味みたいなものを出すのにはいいかな。で、まあ、昔から、評価はあまりまあ、日本でもアメリカでもされてないんですけど、どうも好きだなあという気持ちがあって。それがさっき、一番最初に申し上げたように、小説が壊れるっていう感じを一番うまく出してる、私にとってね、からかな。もちろんヘンリー・ミラーだって誰であれ小説壊れてるんですけど、それをこういう小品におさめて書いてるっていうところが、なんとなく、好ましいという、私としては思った。

柴田:えっと、日本でのほうが多分アメリカよりはるかに読まれてる……

平石:かもしれないですねえ。

柴田:で、評価されてる感じはしますねえ、うん。

平石:それもでも、私の世代だけじゃないですか、ほとんど。

柴田:いや、そんなこともないですよ。

平石:そんなことはない。

柴田:ええ。つまり、『アメリカの鱒釣り』は新潮文庫で出てるし、それから河出文庫からも『西瓜糖の日々』『ビッグ・サー』もまだ生きてるんじゃないかなあ。とにかく何冊もあって、未だに絶版でなく読まれてますから。学部生と話しても、だいたい村上春樹さん経由だったりしますけども、ブローティガン好きだという学生はけっこう多い。それなりに読まれてると思いますね。

平石:あー、はい、はい。

柴田:ええ、ええ。むしろアメリカ人と話していて、ブローティガンは日本でそれなりに読まれてるって言うと、えーなんであの人が、っていうふうにね。村上春樹さんも影響受けてますよ、とか言うと、えーなんで、みたいなふうに言われることが多いです。

平石:ああー。

 

アメリカに対する幻滅を早くから察知したブローティガン──わりをくっているのはカーヴァー??

 

柴田:で、それはそれとして、解説で平石さんは「ともかくブローティガンはメルヴィルにも繋がっているし、カーヴァーにも繋がっている。ような気がする」ってふうにお書きになってるんですけど、ここはもう少し詳しく……お話しいただけると。

平石:それで言うと、いや、授業みたいになっちゃう。

柴田:いいです。(聴衆の皆さんに向かって)授業、いいですよねえ(笑)?

平石:なんなんでしょうねえ。直観的に言うと、その、Trout Fishing in America という作品の中に、ソローとかメルヴィルとか出てきて、ブローティガンの小説という形式に対する幻滅と戦後アメリカに対する幻滅と両方重なっていて、それがアメリカに対する幻滅の部分では、その幻滅を、まあなんというか、早くから察知していた人として、ソローとかメルヴィルとかが出てくるというような。つまり、アメリカ文化テーマで、繋がってくる……

柴田:なるほど。

平石:だから、カーヴァーは、まあ両方とも西海岸だってこともありますが、そこにいて、小説が壊れ、生活が壊れた時代をそのまま引き受けていて、で、カーヴァーの偉いところは、もうブローティガンは小説なんか書けないんだと、もうダメなんだと、だから手記みたいなもので誤摩化していこうという手しかとれなかったのが、ちゃんと同じような生活をして、あるいはもっとひどい生活をして、それで、リアリズムから一歩も出ることなく、小説がきちんと出来上がっているってところがやっぱりすごいなあという。まあ、こういう作家は生まれてきて初めて、出てきて始めて、ああこういうやり方もあったのかっていうふうに気づかされるわけですけれども、そういうタイプの繋がり方をしているんじゃないかと、自分では思っていて。なのでまあ、私もだいたいアメリカ文学の講義っていうのは、ブローティガンからカーヴァーへっていうので終わりってなっちゃって、その先があんまり興味ないんですけど。

柴田:だから、カーヴァーとブローティガンって逆みたいな気がしますよね。まずカーヴァーみたいに、アメリカン・ドリームから遠く離れた人たちの生活がリアルに描かれて、それをブローティガンみたいに幻想的な感じで崩してくっていうのはわかるんだけど、それが逆になってるってところがすごく不思議だなと、いつも思います。

平石:うん、その逆になってることによって、わりを食ってるのはカーヴァーのほうで……

柴田:なるほど。

平石:ひっちゃかめっちゃかやって、幻想の世界にいって、ドラッグとかねえ、フリーセックスとか、いろんなことを試してみた後の時代に、なおかつまだ小説どうやって書くんですかっていうような問題にたまたま彼は直面したのではないかなあ、というふうに。

柴田:なるほどね。

平石:だから私は自分なりに小説が書けなくて、まあ、探偵小説ならなんとかならないかなあと思って書いてるんですけども、カーヴァーみたいな人を見ると、まあ、これねえ、生まれも育ちも違うんでね(笑)、あんまりね、比較してもしょうがないですけど、やっぱり小説っていうのは、ねえ、あのー、すごい人さえいれば、生きのびるんだなあということを教えられるという、そういう作家だと思います。

柴田:で、そのメルヴィルとの繋がりっていうのは、お話うかがってなるほどと思いました。藤本和子さんの解説などを見ると、メルヴィルとかヘミングウェイが大きな物語とか男の物語を書いてるのを、ブローティガンがいわゆる脱構築──まあ藤本さんはそういう言葉を遣わないけれど──しているというふうに捉えていますよね。

平石:はい、はい。

柴田:今、平石さんがおっしゃったのはそれとはだいぶ違う見取り図で、メルヴィルがもうすでにアメリカの夢みたいなものに幻滅していて、ブローティガンはそれを継承しているという……

平石:はい、そうだと思います。

柴田:ええ、それは納得します。えっと、じゃ、この辺りで何かご質問をもらいましょうか。

平石:はい、はい。

柴田:いかがでしょうか。観客のことを考えないで一時間喋っていたのですが(笑)、えーと、どんな点でも結構です、質問ある方は、手をあげていただければ、どうでしょうか。(沈黙)弱ったなあ、どうしようかなあ。

平石:いやこのまま。

 

最後の一行でびっくりさせたかったフォークナー

 

柴田:この沈黙のまま。じゃあひとまず僕が質問しますけど、ベスト10と銘打ってしまったからには、これ、続編はないってことですか?

平石:ないです。

柴田:ああ。

平石:で、いやこれで定年になったときにだいぶ辞書とか捨てましたのでね、いやあ、ヘンリー・ジェイムズのねえ、The Ambassadors っていう本ね、私、大学院の一年か二年の頃に読まされて。

柴田:僕もです。ええ。

平石:同じクラスだった?

柴田:いや、違う。

平石:それで見たら1ページにねえ、30個くらい単語引いてあるんですよ、で、その単語の意味をねえ、脇に全部書いてるんですよ、だからそういうなんかうぶな時代もあったんですけど、それねえ、捨てるのしのびなかったんですけどねえ、やっぱり捨てました。

柴田:そうですかあ。

平石:それで、つまり、その小説書くために、こういうのはまあ、過去に引きずられてはいけないという気持ちで、それを捨てたぐらいですから、どんどん平気で捨てたので、もうすでにベスト10をやるだけの本が残ってない……というのが現状で。この『アメリカ短編ベスト10』がもし爆発的に売れたらね、フォークナーベスト10とか、ヘミングウェイベスト10とか(笑)、まあそれぐらいは、なんというか、二匹目の泥鰌でやらないでもないけど。基本的には、もう、ないです。

柴田:あ、やっぱり、個人作家でベスト10組むとしたら、フォークナーですか、まずは。

平石:えーっと、そうでしょうねえ。そうじゃないですか? 

柴田:えーっとお。

平石:ヘミングウェイもだけどね。

柴田:うーん、そうですか。わかんないなあ。

平石:フォークナーってのはいい短編があんまりなくて、一つ面白いとか、これ私やりたいって意味じゃなくて。有名なのが三つか四つで、あとは趣味によりけりで、どれを選んで順位にするかっていうのはなかなか難しいところがありましてね。そういう意味ではバランスのいいベスト10があればいいかなってのは、気がちょっとしてますけれども。

柴田:その辺りだと、「エミリーに薔薇を」とか入るんですか?  

平石:そりゃ当然入るでしょう。"Dry September" だって入るし。

柴田:「エミリー」はちょっと苦手なんですけど。

平石:はい。

柴田:あれはどういうところがいいでしょうか。

平石:えーっとお、いややっぱ、びっくりするでしょ?

柴田:ま、一回目は。

平石:うん。え? 一回びっくりすれば十分じゃないでしょうかね。

柴田:いや、だからさっきの、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」は最後の一行でおおっ!て思って、でも今度はその最後の一行を踏まえて最初から読み直すとまた全然別の面白さが出てくる。でも、「エミリー」の場合は最後を知ってしまってからもう一度読むと、なんだかなあ感が、さすがにフォークナーでもある気がするんですけど。

平石:なるほど。それはね、おっしゃる通りなんだけど、ちょっと、求めすぎですよ。

柴田:そうですかねえ。

平石:あれはその、最後のびっくりにすべてを賭けて書いたようなところがあって、O・ヘンリーじゃあるまいし、最後の一行でびっくりさせる小説書いてお前何をやってるんだという気がちょっとしますけれども。やっぱりフォークナーも、ま、小説家ですからね、そういう面はあったんだなあということを、逆にわれわれが教えられるというような。あれぐらいの作家でも、これ読んだらびっくりするよみたいな、そういう小説を書くわけでしょ。それがまあ、小説ってものなんだなあっていうふうに思えば、腹は立たないんじゃないですかねえ。よくできた商品化された小説にかなり近いものだと思いますけどね。いわゆる普通の意味での自己表現とか、思想の表現とか、そういうものとは違うものですから。でもそれも小説としていいんじゃないかなあというふうに思っていて、だからまあ、あれは入るでしょうねやっぱり。

 

✦一部の質疑応答✦ 

質問者:平石先生はすばるで文学賞を受賞されてますよね? その時の文学的な感触っていうのと、その後書かれている小説が、だいぶ隔たりがあるように思うんですが。

平石:その後っていうのは? 私が書いた小説ですか、ああ、たくさん読んでいただいて、どうも恐縮です。隔たり、ありますか?

質問者:はい、それをなんか、志的なものを変えてしまわれたんじゃないかなと思ったんですけど。すばるの文学賞を受賞された時の印象がすごく強いもんで。

平石:はい。ありがとうございます。ありていに言うと、堕落したんじゃないか、ということですか? いや、そうですねえ、えー、質問が出ないのを幸いに、多少ゆっくりお答えするとすれば、まあ、探偵小説っていうのは、好きじゃない人から見ると、お前いつまでそういうことやってんだっていう、まあ、そういうふうに見えるジャンルであることは否定しようがなくって。私が探偵小説を書いてるって言うと、普通の小説も書いたらいいんじゃないですかっていうことを二人に一人はおっしゃるんですけれども、私には私の理由があって。その、すばるの頃に繋げて言うと、その後の文学、いろいろ忙しかったりしたこともあるんですけど、基本的にはなかなか小説が書けなくなって、書けなくなっても書きたいなっていうふうに思うのが、まあ、小説を書く人間のどうしようもないところで。書けなくても書ける小説はないかなあと思って、しばらくいろいろやってたらば、探偵小説ならすぐ書けるということに気がつきまして。それですばる文学賞のすぐ後の小説が、出版していただいたのがもうすでに探偵小説だったんですね。ですから、あの時点に遡って、もちろん、天に向かって何か奇跡が起こるのを何度も祈ったり、何かこうきっかけがあって、今こそチャンスなんだから自分が小説家としてばんばんやっていくようなことが何か起こんないかなあ、あるいは自分の中から湧いてこないかなあってことを祈る日々っていうのが、あの頃ずいぶん続いたんですけれども結局ダメで。ずいぶんもちろん、今こうやって平気で喋ってますが、自分に失望したっていうか、がっかりした時代ももちろんあるわけですけどね。また、外から言うと、ちょうどその頃、村上春樹と中上健次っていう、私の世代の二大天才がほとんど同時に出現したりとかして、私が書いてる小説ってのはもう全然中途半端でダメだなって思い知らされるってなこともあって。ある意味では逃げ道を探すように、ある意味ではよちよち歩きでも書き続けられるようなものを探して、探偵小説にたどり着いたっていうようなことがありましたので、自分の中で何か大きく変わったとかないんですけれどもね。普通の小説が書けないんだったら、ダメになったのかもしれないけど、自分では小説書くことに変わりはないし、自分の小説には自分の世界がそれなりにやっぱり出てるんじゃないかなあというふうには思っているので、わりあい、ハッピーに、書いていられる時はハッピーに書いております。

柴田:その、探偵小説だったら書けるっていうのは、一般論としてそうじゃなくて、平石さんの場合はそうだったってことですよね?

平石:ええ、もちろんそうなんですけど、柴田さんよくご存知のように、この頃の作家ってわりと探偵小説モードで小説構成したり、前半はほとんど探偵小説みたいなこと、結構ありますよね?

柴田:はい。

平石:なんかだから繋がってるかなあという気がしないでもないですけど。はい。

質問者:さきほどトウェインの話のときに、長編だったらハック・フィンはベスト10に入るだろうというふうにおっしゃった……

柴田:5位。

質問者:あ、5位。それで、今回のこの短編集で、長編と違って短編だったらこういう要素とか、ものが入っていてほしい、みたいな、そういう視点みたいなものは持っていらっしゃるんでしょうか。

平石:えーと、ある意味では持たずに、自分が面白いと思ったのを選んだというだけなんですが、またあの別の意味では、さすがに次点を入れると11個なので、全部足すとアメリカの小説の流れっていうかね、アメリカの小説の雰囲気っていうか、それがだいたいわかるようにしたいというような気持ちがあったので、あまり戦後に偏るとか、ある時代にばっかりいくとか、そういうことはないようにというようなことは考えました。はい。だから問題は、ちょっとなんか品のない言い方をすると、今度のベスト10を、どっかの大学のアメリカ文学の入門の授業に教科書として使っていただいても、それほどひどいことはないだろうと思っていますので、売れ行きを期待してるんですが。その時に一番、最初にだったか話題になったように、私のはホーソンとジェイムズは入ってないんで、それはまあ、適宜補っていただくなり、あるいはホーソンのやつがなくても、別にアメリカ文学史としては構わないんじゃないかというようなことを、ちょっと立ち止まって考えていただくなりされるといいなと思っています。

柴田:ほかにないですか? はい、どうぞ。

質問者:作品を選んだ時に、印象が残ったものを特に選ばれているのかなあと思ったんですけれども、その、印象が残るっていうのが、私の解釈だと違和感を感じるものなのかなあとも思って、ただその、平石先生が最初におっしゃってたのが、好きな小説の形として筋が通っているものというお話だったり、そこと何かその私の中でうまく整合性がとれないなあというふうに感じていて、平石先生の中で印象が残るっていうのは特にどういったものなのかっていうのをお聞かせいただきたいです。

平石:それは答えは一つではなくて、いくつかあって、こういうところがいいと思ったってなことはあとがきになるべく詳しく述べましたのでそれを読んでいただければだいたいわかっていただけるかなあと思いますが、違和感っていうのはつまり今まで読んだ小説と違うなっていう感じっていうのが、その違和感の表現だとすると、そういう感じはおっしゃる通りだと思います。それで、今まで読んだ小説と違うなっていう感じを持つっていうことがいかに大事かっていうことは私、授業やってる時、ずいぶん強調しましたけど、それは、小説をたくさん読んでないと成り立たない比喩なんですよね。一つか二つしか小説読んだことないのに違和感もへったくれもないわけで、やっぱり千くらい読んで、ようやく小説ってのはこういうもんかなあというふうに思い始めると、そこに、その違和感っていうのが出てきて、ああこの作家はこういうことを新しくやろうとしてるんだなあというようなことがある。それから、時代を追って読んでいくと、この時代の小説家はこういうことはあんまり考えてなかったんだなあとか、この時代になるとこういうことが強調されて考えられるようになったんだなあというような、そういうような違和感を繋いでいくと、小説の流れもわかるようになるので、まずはいろいろ読んで考えた中で、おっしゃったような感じを持たれるっていうのがいいんじゃないかと思います。それから、あのー、老婆心ながら、私は筋が通った小説っていうふうに言ったつもりはなくて、小説ってだいたい筋通ってないんですよね。で、筋がちゃんとした小説、つまり、起承転結があるとか、誰かが殺されるとかね、私の趣味で言えば。あるいは、どうしようもない、自殺してしまうとか、とにかく何か人生についてあるアクションがあって、ある結論が出るみたいなほうが小説としては好きだなあというのが、これは昔から変わらない。それが私のダメなところかもしれないですけども、私はもともと、プルーストとかベケットとかっていうのがほんとに読むのいやで、えー、それでまあ、アメリカ文学にしたっていうぐらいなもんですから、筋がちゃんと起承転結がある小説っていうのがやっぱり好きだなあっていうふうに思ってます。

柴田:じゃ最後に、全然別の質問をします。今回は短編ベスト10なんですけども、突然長編ベスト10を今言えっていうのはさすがに無理かもしれないので、ベスト3でどうですか? アメリカの。

平石:その質問は時々受けるので……

柴田:あ、じゃ、全部いける?

平石:なんか答えてるうちにだいたい覚えちゃった……

柴田:あ、そうですか、それじゃ。

平石:10までは言えないですけども、まず1位が『白鯨』で、2位が『八月の光』であるっていうことは、変わったためしがないですね。それで、3位がヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』。これはジェイムズのことをさんざんさっき悪く言いましたけど、とても悪い女とかいろいろ出てきて、いい小説だと思います。

柴田:『鳩の翼』。

平石:『鳩の翼』。それから、あとは順不同ですけれども、忘れられないのは『欲望という名の電車』、テネシー・ウィリアムズですね、まあ劇ですけれども。それからトニー・モリソンの『青い瞳がほしい』も忘れられないですねえ。それから、『ハックルベリー・フィンの冒険』も忘れられないと。というぐらいまでは、まあたいてい入ってるかなあと思います。そんなとこでよろしいでしょうか。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

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