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2020.8.12川本玲子 ☕フォード・マドックス・フォード──ほらふき男爵の孤独な冒険

川本玲子 ☕フォード・マドックス・フォード──ほらふき男爵の孤独な冒険

✏ 文=川本玲子

 

 世間には、「ほらふき」と称されるタイプの人物がいるものだ。どんな話も半ば無意識に、しかし大いに「盛って」しまう性分で、他人の体験談を自分のことのように語ったり、どこかで見かけただけの有名人と昵懇の仲だと吹聴したりして、他人からは「あの人の言うことは眉に唾をして聞かないとね」と陰口を叩かれる人物。少々警戒されつつも、実はお人好しで愛嬌があり、いつも熱心に耳を傾ける人の輪の中で、水を得た魚のように生き生きと饒舌に語る人物。

 作家フォード・マドックス・フォード(1873-1939)は、まさにそんな人間だった。ラファエル前派の画家たちの師匠と言われるフォード・マドックス・ブラウンの孫で、幼少期から音楽、絵画、文学に早熟な才能を示したが、女好きの子供好きで(いずれも双方向の愛情だったが)、雨漏りのする借家を修繕したり、庭で野菜を育てたりしながら、おびただしい著作を残している。文無しのくせに気取り屋で、文壇のうわさ話や自身の手柄話に尾ひれをつける度が過ぎて、V・S・プリチェットに「ほらふきボケ(anecdotage)」とさえ評された彼は、絶え間のない色恋沙汰のせいもあって、大事な友人を何人も失った(Saunders, Volume II 452)。ドイツの男爵家の血筋だというのも、彼の虚言の一つとされていて(実際には、主に出版・印刷業を営む家系だった)、つい「ほらふき男爵」と呼びたくもなる。

 無名だったエズラ・パウンドやヘミングウェイ、D・H・ロレンスを世に出したのが、フォードが創刊し、編集した文芸誌だったことはよく知られるが、レベッカ・ウェストによれば、フォードは「偉大な批評家だったとは言えない」。なぜなら「彼の変換的記憶(transforming memory)が何でも作り変えてしまうから。[中略]彼が何か偉大な本について議論し始めると、彼がそのテーマについて根本的に誤った印象を抱いていたり、登場人物を勝手に増やしたり減らしたりしていることが、あとではっきりするのが常だった」(Saunders, Volume I xiii)。

 その一方で、フォードの幼馴染で作家のオーリヴ・ガーネットの日記と本人の話を突き合わせると、彼の記憶はかなりの部分において、むしろ非常に正確だったことが分かる。驚くほど博識なフォードの語り口は、誇張や反事実を多分に含みつつも、機知と独創性に満ち、人を魅了した。ガーネットは日記に「フォード、信頼性のなさ──そして非凡の才」と書き記している(Moser 516)。

 彼は半ば確信犯だったのだろう。文学的回顧録 Ancient Lights(1911)の冒頭、二人の愛娘への献辞のなかで、フォードは「つまりこの本は、事実については間違いだらけだが、印象に関しては完璧に正確だ」と居直っている。また別の回想録 Thus to Revisit(1921)では、25年前のある日、著者がサセックス州の丘で仰向けに寝転がって、空に舞う無数のタンポポの綿毛を眺めたときのことが鮮やかに、目に見えるように回想される。ところが意外にも、これは彼自身の体験ではなく、過去に読んだW・H・ハドソンの『ダウンランドの自然』(1901)の一節から受けた印象であったことが、のちに明かされる。それでもこの代理経験は、「自分がこの肉体で経験した中で最も忘れがたい出来事」であり、なんと第一次世界大戦での過酷な従軍体験に劣らぬ切実さで、「私の人生の一部となっている」とフォードは断言する(77)。

 また彼は、敬愛するヘンリー・ジェイムズの評伝において、ジェイムズ作品が読者に与えるのは、そこに登場する人物たちが実在して、現実世界のあちこちを闊歩しているという印象であるとし、かれらは「リアルなのだ!私たちがこれまでに出会った誰にも劣らず、真にリアルな存在なのだ」と強調する(Henry James 90)。そしてその言葉通り、「デイジー・ミラー」のウィンターボーン、『メイジーの知っていたこと』の(成長した)メイジー、『鳩の翼』のケイト・クロイとマートン・デンシャーといった面々が園遊会や劇場で互いに出会い、会話を交わす場面を長々と思い浮かべ、描写して見せる。

 つまりフォードにとって、すぐれた文章がありありと描き出す生(ライフ)の印象は、現実の、生きた経験と同じくらい「真実」なのである。反対に、どんなに仔細な事実の記録も、生きていることの感覚そのものをとらえられなければ、まったく無意味だ。「嘘つきは事実を知りながらそれをわざわざ空想に作り変えるけれど、フォードの場合、彼の感覚に触れたその瞬間、事実はたちまち空想へと姿を変えるのだ」というウェストの言葉は、だから、半分は正しいのだろう(Saunders, Volume I 7)。ただし、彼の感覚がとりこむのはあくまで真実という名の印象で、そこでは事実と虚構の間に優劣関係はない。そればかりか、その印象を受けたのが誰なのかという主体間の区別もない。このとき、他者の経験は私たちのものとなり、私たちの経験もまた、他者のものとなる。

 人はふつう、事実の記録を現実に下ろす錨のようなものと考え、それを外したら最後、妄想や虚構の海に遠く流されてしまうと怯えているのではないか。「まともな」人々に信用されなかったフォードは、その錨をあっさり引き上げて、真実めざして力強く漕ぎ出す自由で孤独な冒険者だった。その旅の軌跡を追うには、フォードの虚言癖にばかり目を奪われることなく、彼の最高傑作『パレードの終わり』四部作が紡ぎ出す「完璧に正確な生の印象」に触れるのが最善の道であろう。

 

参考文献

Ford, Ford Madox. Ancient Lights And Certain New Reflections Being The Memories Of A Young Man. Wentworth Press, 2019. [Digital]

_____. Henry James: A Critical Study. Dodd, Mead and Company, 1916.

_____. Thus to Revisit. University of Michigan Library, 1921.

Moser, Thomas C. “From Olive Garnett's Diary: Impressions of Ford Madox Ford and His Friends.” Texas Studies in Literature and Language. Fall 1974, Vol. 16, No. 3, pp. 511-533.

Saunders, Max. Ford Madox Ford: A Dual Life. Volume I. Oxford UP, 2012.

_____. Ford Madox Ford: A Dual Life. Volume II. Oxford UP, 2012.

 

❐ PROFILE

一橋大学言語社会研究科准教授 。東京大学大学院人文社会系研究科英語英米文学専門分野博士課程単位取得退学(文学修士)。著書に『ジェンダーと身体──解放への道のり』(編著、小鳥遊書房)、「認知をめぐる寓話──村上春樹「螢」を読む」西田谷洋、浜田秀編著『認知物語論の臨界領域』(分担執筆、ひつじ書房)、 「フォード・マドックス・フォード『善き兵士』(一九一五)──信頼できない語り手と印象主義」高橋和久・丹治愛編著『二〇世紀「英国」小説の展開』(分担執筆、松柏社)。

 

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『二〇世紀「英国」小説の展開』