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2021.3.4リレーエッセイ ♠ 大学における授業と研究【第4回】おめおめと生きる▶桐山大介

リレーエッセイ ♠ 大学における授業と研究【第4回】おめおめと生きる▶桐山大介

✏ 文=桐山大介

 

 「司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、進退谷(きわ)まった、と知りながら、おめおめと生きていた。」武田泰淳『司馬遷』冒頭のこの一節は、太宰治『人間失格』冒頭を意識して書かれたそうだ。しかし自己陶酔を拭いきれない太宰の主人公よりも──それはそれで魅力はあるのだが──日ごとに増す恥ずかしさを嚙みしめながら生きつづける泰淳の司馬遷のほうが私には好ましい。それは好みの問題に過ぎないが、大袈裟に言えば一種の信仰告白でもある。

 ともあれ、司馬遷はなんとしても『史記』を書き上げるという執念にすがって生き延び、やがてその大業を成し遂げる。信念を持つ人間は強いということだろうか。そうかもしれない。ただし、司馬遷は初めから『史記』を書くことの意義を確信していたわけではない。なんとか恥ずかしさをかき消そうとして執筆に注力していく中で、その意義を信じるしかなかったのだ。「書くにつれかえって恥ずかしさは増していた」のだとしても。

 フラナリー・オコナーは、信仰(faith)とは「神学的解決」ではなく「暗闇の中の歩行」だと言う。通常、faith は強い確信を含意するものの、確かに「信じる」という行為はその対象が真なるもの、正しいものではないかもしれないという可能性を前提としており、暗闇の中を手探りで進むようなものでしかありえない。そしてカトリック作家としての自負を語るオコナーの意に反することになるかもしれないが、オコナーの言葉は宗教のみならず生一般についても当てはまる射程を持つ。我々は根拠のない何かを、ひいては生きること自体の意義を、意識的にせよ無意識的にせよ信じずには生きられない。しかしその意義が絶対的真理として固定されてしまうと、信仰を超えた妄信になってしまう。信じることは解決ではない。正しくない可能性を見据えながら、それでも歩みつづけること──この信仰観は、決定不可能性の中での決断に倫理の契機を見るジャック・デリダの思想にも似る。

 オコナーの第一長編『賢い血』に登場するヘイゼル・モーツやイーノック少年はこのような信仰を想起させる人物だ。彼らは既存のキリスト教を無邪気に受け入れることはしないが、信仰を捨てることもできない。ヘイゼルはキリストや罪を否定しようとすればするほどそれらの想念に取りつかれ苛烈なキリスト者になっていき、イーノックは自ら考案した儀式が「新しいイエス」による奇跡を起こすことを期待する。彼らは惑いながらも己の道を追求し、イーノックは最終的に幻滅を味わう。一方、結末近くで自ら目を潰し苦行者になるヘイゼルは、何かしらの悟りを開いたかのように見える。

 しかし物語終盤におけるオコナーの興味は、ヘイゼルよりも彼に胡散臭さを感じながら惹かれていくフラッド夫人に移っていく。この男は自分を騙している狂人かもしれないという疑念を抱きつつ、目を潰すことによってしか見えない何かが見えているのかもしれないという思いも彼女は捨てきれない。その何かを求めて、フラッド夫人はヘイゼルに執着するようになり、やがてヘイゼルは彼女にとって闇の中の「針の先のような一点の光」となる。ヘイゼルが暗闇の中の歩行に踏み出すきっかけをフラッド夫人に与えるのだ。このエピソードで物語を閉じるオコナーにとっては、ヘイゼルが真理を得たのかよりも、フラッド夫人の信仰の始まりのほうが重要だったのだろう。

 ヘイゼルもイーノックもフラッド夫人も、信じているものは正しくないかもしれない。そしてなおもそこに意義を見出そうとして右往左往する彼らの姿は、傍から見ればひどく滑稽だ。しかしそんな彼らの頓珍漢な言動に、私は憐憫と共感の入り交じった笑いを洩らしながら心を打たれる。それは、我々はそのようにして生きていくしかないのだと思い出させられるからだ。同時に、その滑稽さ、恥ずかしさを開き直らずに直視するよう迫るこの物語の残酷さも感じずにはいられない。暗闇の中の歩行の恐ろしさの一端は、滑稽なその姿が他の人からは丸見えであることにある。そんなことは気にせずまっすぐ突き進んでいるふりができたら楽だろう。しかし妄信に陥らず信仰を持ちつづけるには、暗闇の中を無様に歩んでいることを忘れてはならぬ、と『賢い血』は言っているようだ。

 こうした信仰観(への信仰)は、こと教育の場においては問題を生ぜしめうる。既存の社会の枠組みの中で効率的に機能する労働者を再生産することを暗に求める組織にとっては歓迎しがたい考え方だろうし、学生たちは往々にして進むべき道を示してもらいたがるものだ。文学作品に登場する暗闇を歩む人物たちを健全な道徳心から断罪して教員に窘められ困惑する学生の姿は、文学の初修クラスにおいてはお馴染みの光景だろう。明快な答えも指針すらもない文学研究は、しばしば学生を大いに惑わせる。

 当たり前に信じていたことに揺さぶりをかけ、学生を暗闇の中の歩行に誘(いざな)う教員はヘイゼルの如き存在とも言えるが、その責任を自覚せざるを得ない私たちは孤独な求道者ぶることはできない。となれば己の行為を正当化したくもなるのだが、疑念とセットになっているのがこの信仰の本質であり、厄介なところだ(「信念を持って生きよ、ただしその信念を疑え」)。その社会的意義や効用を謳うこともできるだろうし、それは(司馬遷の場合のように)時に生き延びるためのよすがともなろうが、突き詰めればそれは方便であり、温泉の効能と大差ない。

 結局はやはり好みの問題であり、信仰の問題なのだ。惑い、躓きと方向転換を繰り返しながらも、その無様な歩みの先に何かがあると疑いながら信じ、信念と疑念の両方を胸におめおめと生きる。重要なのはそうして生きつづけること。しかしそれを唯一絶対の道ではなく一つの選択肢として提示すること。当面、私にできることはこれくらいのようだ。

 

❐ PROFILE

茨城大学 人文社会科学部 専任講師。研究分野はモダニズムを中心とするアメリカ文学。訳書にデイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(共訳、国書刊行会)。

 

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