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2020.12.17大貫隆史「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」の「文化」──高木仁三郎の感情構造

大貫隆史「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」の「文化」──高木仁三郎の感情構造

✏ 文=大貫隆史

 

 今年、時折、高木仁三郎の著述を読み直したい、という思いを何度となく持った。高木は、「核化学(放射化学)」を専門分野として選び、卒業後の1961年、「日本原子力事業に就職」、その後、「都立大学理学部化学科の助教授」として勤務するものの、ドイツ留学中に辞職を決意、周囲より翻意を促されるなか1973年に離職し、数年の模索の後、「原子力資料情報室」を1975年に共同で設立、原子力技術のみならず、科学の抱える諸問題をめぐって、幅広く執筆、講演活動を行った「市民科学者」である(高木仁三郎『市民科学者として生きる』71-72, 111, 132-133, 148頁)。

 科学者であるが、かつアマチュア的でもある、という困難な位置取りを終生貫いた、この希有な書き手に関心を持ったのは、遅ればせながら2011年のことだった。当時は彼の先見の明ばかりに目が行っていてわけだが、今年再読してみて目を引かれるのは、どうやら、彼の明察ばかりではないようなのだ。

 思想史家で評論家の関曠野との対談(1987年)の中で、高木はこう言う。

 

・・・・・・これから科学技術をやっていこうという人間について考えると、いまはもう個人の主体性において個人研究として科学をやるとか、それによって何か成果を上げる、そういういわばアインシュタイン型の科学者をイメージしてもしょうがないと思うんで、むしろこれから科学をやっていく人間というのはシステムの中のある部分を担う人間でしかないと思います。非常に管理された中にいる人間だといってもよいと思うんです。だから、その中で、そういうことを自覚した上で、どう生きられるのか、どう生きていくのか。自分のアイデンティティをどこに見て、主体性をどう発揮しうるのか。そういうことをまじめに考えていかなくちゃならない時に来てると思うんですね。(高木仁三郎・関曠野『科学の「世紀末」』120頁)

 

科学的知識の生産というものはもはや、個人の超人的な営為によるのではなく、いわば道具的存在としての科学者や技術者たちによって為される、という辛辣とすら言えそうな認識がここにはある。とはいえ、この市民科学者の言葉遣いの魅力は、辛辣さと希望が同居している点にあるのだろう。「システム」の道具となりつつも、その上でなお「主体性」や「アイデンティティ」の実現が目指されるのであって、道具であることにただ忍従せよと高木が言うことはない。

 これは単にウェットな言葉遣いを彼が選んでいる、ということではおそらくなくて、むしろ、「道具的」でありかつ「主体的」である、という位置取りが、にわかにはイメージしがたいもので、だからこそ、高木が言葉選びに難渋している様子がよく現れているように思える。

 日本原子力事業に勤務していた二十代の時分を、高木はこう振り返る。

 

・・・・・・会社の中では、「個」がまるで見えない。そのことと関連して、意思決定のプロセスがはっきりしない。いや、それなりの会議などによって事が決っていくのだが、全体として上が言ったことには逆らい難いような雰囲気に支配されているから、よく言われる「横ならび」の精神で、突出した発言をしようとはしない。本気の議論のないまま、上の意向に従って、あいまいなまま事が決っていく。決っていくひとつひとつのことは多くの場合些細なことで、少し疑問があっても上司に逆らってまで反対することはないと思ってしまう。しかし、これを積み重ねていると、決定的なときに容易に反対できない。反対しようとすると一身を賭すようなエネルギーが必要となる。(『市民科学者として生きる』87頁)

 

「システム」に駆動されつつ「システム」を駆動させもする道具的存在であることが、現代の技術者や科学者たちに求められている。ただしそれと同時に、「個」であることも決定的に重要なのである。

 高木の抱えていた問題は、そのままの言葉遣いでは、純然たるパラドックスになってしまう。道具的存在である限り、「反対しようとすると一身を賭すような」意図を、技術者や科学者が持つことは困難である。にもかかわらず、その意思を自由に表明して「システム」を全く顧みない科学者や技術者はその肩書きに値しない存在になってしまう。

 そこで高木が、その危うさを自覚しながら使用したのが、「文化」という言葉だったのではないか?

 

フラスコの中に培養液を入れ、そこにいくつかの生物──バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ──を入れた共存系の中でも、成熟という現象が起こるという。系の若い時期には、全体として総生産量(生物による有機物の合成量)が増え、生物体の量も増加するが、あるときから生産量は減少し、しだいに一定に落ちつく。それとともに生物体量も一定となる。つまり、安定化が起こって、成熟した共存が実現する。(『いま自然をどう見るか』176-177頁)

 

この「成熟した共存」を、高木は大胆にも「文化」と呼ぼうとする。

 

文化というと、人間の意識的行為にのみ使うべき言葉と考えられている。生物の世界では、進化とか分化とかいう。しかし、生物社会であれ個体であれ、個々の生物の内なる変化については進化でもよいが、それが個別の寄せ集め以上の全体性を示し、環境条件を成熟させて、ひいては地球そのものの生きている質を向上させていくとしたら、進化というよりは成熟という言葉の方がふさわしい。そして成熟というとらえ方が許されるとすると、仮に「生物界のつくる文化」と呼ぶこともできるのではないだろうか。(あまり勝手な概念をもち出すことは自制しなくてはならないから、ひとつのイメージの問題として、ごく仮説的に右のような表現を許していただきたい。)(『いま自然をどう見るか』176頁)

 

「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」──これらの生物は、人間のような意識を持ってはいない。それにもかかわらず、個々の種の存続だけではなく、共存して生きる環境という「全体」を、結果として「成熟」させ得ている。ここまでは、生態学的に間違いのないことのようだ。ところが、高木はこれを「生物界のつくる文化」と仮称しようとするわけであって、ここに大きな問題が生じてくる。

 英語の “culture” であれば、“agriculture” がそうであるように、なにかを人為的にも育てつつ、かつ、そのなにかが自然に育つのを期しもする、という含意がある。この含みが日本語の「文化」にもあるとすれば、「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」に「人為」を見るのは、やはり無理があることになるだろう。

 とはいえ、ここでの高木の勇み足を冷ややかにみてしまうと、彼の書き物の核心部分を看過してしまうことになるのではないか。彼はなぜ、そういう無理のある言葉遣い、すなわち「文化」を選んだのか?

 高木が抱えていたパラドックスに戻ろう。現代の科学者たち、技術者たちは、システムの中で道具的存在とならねばならないが、それと同時に、「主体性」も発揮せねばならない。高木はこのパラドックスに直面していたのではないか、と私は書いた。ところが、「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」の「成熟した共存」を論じる高木が含意しているのは、先のパラドックスがパラドックスなどではなく、むしろ実相である、ということなのではないのか?

 「フラスコ」の中のシステムに生きる生物たちによる、個々の種の生存のための営為が、同時にそれ以上の何かになっているように、現代の技術者たち、科学者たちも、システム内の道具的存在として知識を分業生産しつつ、かつ、道具的存在以上のなにかを実践している。そうでなければ、決定的な破綻が残念ながら常にではないにせよ、それでも回避されていることの説明がつかないではないか。

 現代の科学者そして技術者たちと、科学的知識生産のシステムとの関係を、適切に言い表す言葉は、少なくとも、高木にとっては存在していなかった。そうした関係を表現するのに、「道具」も「主体性」も「個」も適切な言葉ではなかった──ここにこそ、高木が「生物界のつくる文化」という仮称を用いる理由がおそらくある。

 そして、そこでの言葉選びの含意は、ことのほか重大なものではなかったのか。というのも、適切な名称がない、ということは、科学者たち、技術者たちと、高木の言う「全体」との関係に、いまだ不確定の部分がある可能性すら出てきてしまうからだ。技術者たち、科学者たちが「道具的存在」に過ぎないのであれば、その知識生産の営みは、良かれ悪しかれ制御しうるものとなることだろう。逆に、彼らが「主体性」を発揮しうるのであれば、彼らのあいだの相互作用になにがしかの安全弁を期することもできよう。

 しかし、彼らが、道具以上であり、かつ「個」以上のものでもあるとき、そのポジショニングが、わたしたちの誰にとっても安全なものでありうる保証は、原理的にはどこにもなくなってしまう。「全体」の破綻を回避することと、そこでの「全体」が排除的なものにならないことは、必ずしも矛盾するわけではないのだから。

 「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」の「成熟した共存」を記述する高木が依拠している、生態学者・微生物学者の栗原康は、これらの生物たちの「共存」が成立する前の経緯をこう記述していた。

 

 [バクテリア、原生動物、クロレラ、らんそう、ワムシのいる]瓶の中へは、空中からごみやほこりや雨水と一緒にいろいろな生物が入り込んだにちがいない。そしてあるものは環境の変化についてゆけないで死にたえ、またあるものはワムシや原生動物の餌食になって絶滅したものもあるだろう。

 いろいろな試練に耐え、ぬけめなく環境を利用し、しぶとく生きぬいたものが瓶の中の生物たち[バクテリア、原生動物、クロレラ、らんそう、ワムシ]である。(『有限の生態学』3頁)

 

「バクテリア、クロレラ、藍藻(らんそう)、原生動物、ワムシ」の織りなす「成熟した共存」システムの、いわば前史には、「死にたえ」「絶滅した」生物たちが「いろいろ」いたのだった。

 さて、そうした過酷な前史を持つ「生物界のつくる文化」と、現代の技術者たち、科学者たちの作りだす「文化」とのあいだに、深い共通性があるとしよう。そのとき、彼らが働きかけ成熟させようとする「全体」が、排除的で非民主的なものになってしまう可能性は否定できなくなるし、もちろんそれと同時に、包摂的で民主的なものになりうる可能性も否定的できなくなることだろう。

 高木はおそらく、この恐ろしく厄介な両義性を、よくよく分かっていて、だからこそ「文化」という言葉を使ったように思えてならないし、この両義性を使って文化という言葉に価値を付与させる仕組みのなかに、すなわち、文化革命の感情構造のなかで彼が書いていたようにも思えてならない。ただし、この推測が正しいとしたら、2020年の現在考えるべきなのは、感情構造という(トートロジカルになるが)感情的に大きな負荷のかかったフレーズのみで高木の営為を考察し続けてよいのか、それとも、文化のソシオロジーという、もっと乾燥した響きをもつ言葉遣いも併用すべきなのか、という問題の方かもしれない。

 

参考文献

栗原康『有限の生態学──安定と共存のシステム』岩波書店、1975年。

高木仁三郎『いま自然をどう見るか』白水社、1985年。

──『市民科学者として生きる』岩波書店、1999年。

高木仁三郎・関曠野『科学の「世紀末」──反核・脱原発を生きる思想』新装版、平凡社、2011年。

Williams, Raymond. The Sociology of Culture. Chicago: The University of Chicago Press, 1995.

 

❐ PROFILE

1974年、茨城県生まれ。東北大学大学院 文学研究科・文学部 准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)大阪大学。専門は20世紀イギリス文化・文学、レイモンド・ウィリアムズ。著書に『「わたしのソーシャリズム」へ──二〇世紀イギリス文化とレイモンド・ウィリアムズ』(研究社)、『文化と社会を読む批評キーワード辞典』(共編著、研究社)、『愛と戦いのイギリス文化史──1951─2010年』(共著、慶應義塾大学出版会)、訳書にレイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて(文化研究 I)』『想像力の時制(文化研究 II)』(共訳、みすず書房)など多数。