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2020.9.2➤小林エリカ リレーエッセイ ✍『ひとり』と夏

➤小林エリカ リレーエッセイ ✍『ひとり』と夏

ハーン小路恭子さん➤大串尚代さん➤小林エリカさん

 

文=小林エリカ

 

コロナによる緊急事態宣言が発令され、保育園が休園になった4歳の娘と一緒に家の中にひきこもっているうちに、気づくと夏がやってきていた。

戦後75年目の夏。

キム・スム著『ひとり』(岡裕美訳、三一書房)をふたたび読んだ。

「これは歳月が流れ、生存されている旧日本軍慰安婦の被害者がただひとりになったある日からはじまる物語です。」

小説はこの言葉からはじまり、旧日本軍従軍慰安婦の証言を実際に引用しながら、丁寧にフィクションがたちあげられてゆく。

読みながら、このある日がさほど遠いものではないことをはっきり感じる。やがて、被害者が、証言をすることができるものが、当事者がひとりもいなくなる、という未来もやって来るだろう。

そうしたとき、私は、私たちは、どうやって過去の出来事を伝え、書くことができるのか。

それに対する全力の回答のうちのひとつが、私にとっての『ひとり』だった。

 

というわけで、あまりにもこの本に感激した私は、美術手帖の(2019年12月号NO.1079[第2特集]小林エリカ)対談で韓国まで行ってキム・スムさんとお話させてもらったのだった。ぜひ内容は特集で読んでいただきたいのだが、その時、彼女が話してくれた「トラウマは世代を越えて受け継がれてゆく」という話を、私は以後何度も反芻している。

 

その後、たまたま知り合いになったアメリカの作家のリー・コーネルと話していた時に、彼女もまた同じことを言っていた。ホロコーストを生き延びた祖父母たちの沈黙が、彼女自身の世代にもまたトラウマとして受け継がれているのだ、と。

 

語られた、あるいは語られなかった言葉たち、沈黙。

 

私は私の父が16歳から17歳の時、第二次世界大戦中と敗戦後に残した日記をモチーフに『親愛なるキティーたち』という作品を書いたことがある。

けれど、あの作品を書き終えてからもずっと、私は父が語らなかった、語ることができなかった膨大な言葉を、どこか探し求めている節がある。

 

敗戦の日、父が記した日記の中にはこうあった。

「想像通り露国に戦宣の大詔が下つたのだらうと思って頑張るぞ!と手を握りしめた。處が「戦局我に利あらず」とか「勝算既に難し」とか云ふ声が波の様に聞こえる。詔書らしいものの前後に「君が代」の奏楽があったがスピーカの調子か處々切れ切れになつた。音が聞こえなくなると同時に気が遠くなる様な気がして思はずフラフラと二三歩よろめいた。」

少年だった私の父は、金沢第四高等学校への入学を夢見つつ、学徒動員され、富山で軍の飛行機を作っていた。

彼は日本の勝利を、正義を信じて疑わなかった、軍国少年だった。

 

私は私の父の口から、そんなこと一言だって聞いたことがなかった。

戦後、医者になり、その後、ジャーナリストを目指した私の父。

 

語られた、あるいは語られなかった言葉たち、沈黙。

 

加害者や、加害の側の立場にあり、加害に加担したひとりひとりもまた、やがて、ひとりもいなくなるだろう。

私の父が死んでから、この九月で十年になる。

けれど、過去が消え去るわけではない。

過去と今とは、どこまでも地続きだ。

私には、私たちには、何が受け継がれているのか。

 

私は東京でおこなわれなかったオリンピックのことを思う。

2020年東京オリンピックだけではなく、1940年東京オリンピックを。

2021年には、東京オリンピック2020が行われる予定らしい。2020。

けれど来年、私たちが迎えることになるのは、戦後76年目の夏だ。

娘は5歳になるだろう。

刻一刻と時が過ぎてゆく。

私たちは年を取り、やがて死んでゆく。

けれど幸い、私たちは、本から、小説から、過去も未来も想像することならできるということに、私は希望を覚える。

 

❐ PROFILE

1978年東京生まれ。作家・マンガ家。2014年『マダム・キュリーと朝食を』で、第27回三島由紀夫賞・第151回芥川龍之介賞にノミネート。著書に『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)、『光の子ども』(リトル・モア)、短編集『彼女は鏡の中を覗き込む』(集英社)、作品集『忘れられないの』(青土社)他。展示に、個展『野鳥の森 1F』(Yutaka Kikutake Gallery 、東京)、グループ展『The Radiants』(Bortolami Gallery、ニューヨーク)他。〈kvina〉としてポストカードブック『Mi amas TOHOKU 東北が好き』(リトル・モア)など。